
彦根の赤鬼と言われる井伊直弼を討つために、
薩摩藩士有村治左衛門は江戸へ来た。
秘密裏に進められていた水戸藩、薩摩藩の
井伊斬奸計画だったが、日を追うごとに
薩摩藩士が次々と脱けていき、
治左衛門ひとりが唯一の薩摩藩士となった。

治左衛門はまだ二十歳そこそこの若者で、
普段はぼんやりしているところもあるが剣の腕は立つ。
さらに詩を書かせると激越な詩をつくる。
そんな治左衛門がこう言った。
・・・・「自分ひとりが参加するだけでも、
水薩義盟に対する薩人の誠意が後生に
疑われずに済む」
(中略)
「私は井伊の行列にまっさきに斬り込み、
島津家四百年の武勇を代表したい」・・・・幕末 (文春文庫)
桜田門外の変/司馬遼太郎/文春文庫 より抜粋

水戸の同志達は、治左衛門の志に打たれ、
また、後の倒幕運動のためにも
薩摩藩に花を持たせるということで一同賛同した。
みな治左衛門に好意的であった。
そして三月三日雪の朝、治左衛門一統は桜田門外で悲願を果たした。
目撃者によると、直弼を討った者が薩音で高らかに叫んだと言われている。
しかし、重傷を追った治左衛門は和田倉門付近まで歩き、そして力尽きた。

江戸城は当時最大規模を誇った。
徳川幕府を盤石にする布石として、
家康に臣従した大名達に江戸城の
増改築を手伝わせた。
財政の疲弊していた諸大名達は、
数回に渡る命令にうんざりしていた。

そんな中、肥後の太守
加藤清正だけは、
黙々と城の普請に精を出す。
加藤清正は言わずと知れた築城の名人だ。
当時の江戸城周辺は、
江戸湾を埋め立てさせた土地のため
湿地帯になっていて、普請も一苦労であった。
清正は、重臣の森本儀太夫に普請奉行を命じた。
儀太夫は、近くから萱や枯れすすきを集めさせ、
石垣を築く地点にある沼に投げ込ませた。
そして、近所の子供達に思う存分その上で遊ばせた。
そして、踏み固められた萱の上にようやく石垣を築き始めたが、
他の諸大名達はすで石垣も完成している。

ある夜、暴風雨が普請現場を直撃し、
他の石垣が崩れ落ちる中、加藤家の築いた石垣だけは
びくともしなかったという。
・・・・「沼地をかためるのに、急ぎあわてて何になろうか」
加藤清正は、故太閤秀吉の下で、いくつもの名城の
建築にたずさわっている。
日本一の ”土木建築の大家” とよんでさしつかえない・・・・火の国の城 上 新装版 文春文庫 い 4-78
池波正太郎/ より抜粋
江戸城が現在も昔の雄姿を残しているわけが分かる気がする。