なぜ、この城郭の造りで徳川軍を二度も撃退出来たのか
不思議に思う。

小説を読むと、小気味の良い変幻自在の戦術で
徳川軍を翻弄し、攻め悩ましたシーンがありありと思い浮かぶ。
そんなことで、上田城を訪れてみたが、
容易に小説のシーンと符合しない。
それはともかく、第一次上田合戦とも神川合戦とも呼ばれる
徳川軍との攻防戦は戦国時代でも有数の名勝負だったと思う。
真田家当主、真田昌幸は信長亡きあとの徳川、北条、上杉による
信州争奪戦を早くに洞察し、上田築城に取り掛かっていた。
昌幸には大勢力に挟まれた小勢力の悲哀など表に見せることなく、
独立大名への野望を独自の遊泳術で切り開こうとしていた。
徳川−北条間による領地交換の条件の中の、
真田領である沼田城を開けることを拒否したことから
徳川軍の上田攻めが始まった。

すでに山城は時代遅れ。上田城は平城。
7千の大軍で攻めれば、2千の小勢力の平城は
いともたやすく攻め落とされると予想された。
しかし、そこに罠があった。
果敢に徳川軍に突撃した真田信幸は機を見て退却に移った。
それを怒濤のように追いまくる徳川軍。
そして、三の丸に徳川軍が充満するやいなや、
得意のゲリラ戦法で嫌と言うほど叩きまくった。
攻め手は大パニックで、川や堀に落とされる者、
槍で付きまくられる者、大木を落とされる者、
阿鼻叫喚の地獄絵図の状態だったと想像出来る。
<むかし、むかし、南北朝のころの武将・楠政成が、
後醍醐天皇の鎌倉幕府征討に味方をしたとき、
幕府軍に包囲された河内の千早城へ立てこもり、
油に火をつけて落としたり、石や木を落としたりして、
敵軍を大いに悩ましたというが....。
いま、ここで、このような古めかしい反撃に出合おうとは、
徳川軍のまったく予期していなかったことだ。>
真田太平記〈3〉上田攻め (新潮文庫)
徳川軍はやがて、損害も多くあきらめて引き上げていった。
昌幸の祖父、幸隆から引き継いだ真田戦術は、
昌幸の名声と共に天下に響き渡った。



