
・・・清正は熊本城を築いた。
当時の築城工学からみればこの城の防御力は
最高のものであったらしく、
とくに当時の用語で「はね出し」とよばれた
石垣積みの工法では同時代のどの城も
熊本城に及ばなかった。・・・・
加藤清正は多くの戦を経験した上で、
この熊本城築城に着工した。
もちろん朝鮮の役で、蔚山籠城の苦難をも、
この城造りに活かしたはずだ。
熊本城の威容や、随所に見られる構造上の工夫など、
様々な書籍によって想像をめぐらせることが出来る。

しかし、関ヶ原の役後の徳川政権が確立しつつある時期に、
このような物々しい「いくさ城」を築城した清正の真の狙いは
何だったのか?
・・・・それほどに堅牢な要塞を清正に築かせたのは、
豊臣政権の戦略的な必要からであった。
中略
ところがはるかに降って明治政府が、
そのエネルギーをもろにかぶってしまった。
明治十年の西郷の乱で、薩南一万数千の
エネルギーが薩肥国境をこえて噴出し、
熊本城にぶちあたり、この清正の城の攻防を
めぐって明治政府の存亡が賭せられてしまったのである・・・・
<司馬遼太郎/ワイド版 街道をゆく〈3〉陸奥のみち、肥薩のみちほか

およそ270年後の西南の役で、
清正の「芸術作品」が両軍の明暗を分けることになった。
清正は、ひょっとしたら数百年後に誰かが、
このように利用することも考えていたかも知れない。



