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ヒデムラ

妻が運営している「ご当地ですよ!」というサイトの中に、百名城のコメントを書いてくれと頼まれたことがきっかけで、ブログを始めました。
元々好きだった日本各地の城を実際に一つずつ訪ねる旅は、時間がかかることですが、思わぬ楽しみとなっています。

ヒデムラの百名城
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二本松城 ~駆け引きを見守る城~

二本松05

関白秀吉の奥州征討も終わり、
相次いで国替えが行われた。

歓ぶ者、歓べない者が各地でそれぞれ
次の手を考える。
二本松06

ここ奥州でも、あわよくば天下を掴もうと
野望を持つ武将が二人、それぞれ手ぐすねを引いていた。

一人は蒲生氏郷。知勇兼備の実力派。
故織田信長にもその武勇を賞賛され、娘婿となり、
織田家の正統な後継者の資格を持つも、
秀吉に出し抜かれた経緯がある。

もう一人は一時期、奥州王でならんとした伊達政宗。
多くを言うまでもないであろう。
二本松07

秀吉が治めたばかりの奥州で一揆が発生した。
上の二人の対戦はこの時に起きた。

ともに秀吉傘下で共同戦線をはるはずが、
移封してきたばかりで地理に暗い氏郷に対し、
政宗は不気味な圧力と威嚇を行う。

これを見守る奥州の拠点は二本松城であった。
軍艦である浅野長政は一触即発の二人にひやひやする。
噂では一揆を煽動しているのは伊達政宗であるという
ことも気が気ではない。

そんな政宗が黄金の磔柱をかつぎ
秀吉に釈明する有名な場面がこのあとのこと。

・・・・まず米沢を出発すると岩代の杉ノ目から
    二本松へ出て、ここで浅野長政と会見し、
    悠々と領民たちに、この晴姿(?)を
    誇示しながら旅をするのだから時間がかかる。
    「なに、あの小僧めが黄金の磔柱を!?」
    秀吉は唖然とした ・・・・・・・・・・・・・・

伊達政宗 (2) (講談社漫画文庫) より抜粋


この釈明の結果は、皆さんの周知の通りなので割愛する...

二本松08




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二本松城 ~双方の義戦~

二本松01


戦国時代の古地図で見ると二本松は奥羽地方でも
ほぼ中央にあり、要衝であることがうかがえる。

しかし、伊達政宗率いる伊達勢と、
畠山義継の遺児、国王丸を擁する
畠山、近隣七街道連合が戦った人取り橋の合戦は、
様相が違っていた。

二本松02

二本松城主、畠山義継は伊達輝宗をあざむき、
人質として拉致しようとしたところを
伊達の救援隊によって討たれた。
もちろん輝宗も死んだ。

政宗、隠居の実父を殺され、
怒りに震え、二本松城を攻め落とそうと計画。

かたや、義継の遺児、十二歳の国王丸も
父の首をさらされた怨みをぶつけた。

二本松03


・・・・おそらく畠山国王丸は父が梟首されたように、
    政宗の首級を奪って二本松の城下へ梟ける夢を
    描いて張り切っているいるのに違いない・・・・


伊達政宗 (1) (講談社漫画文庫) より抜粋
    
そうして起きた人取り橋の合戦では、
双方の憤怒がぶつかり合い、大激戦となった。

勝敗は、かろうじて伊達勢が勝利を収めたが、
後世に伝わる話では、政宗の師である虎哉禅師が
政宗の無駄な戦を諌めたことが有名となった。
二本松04




駿府城 ~偉業果たして~

sunpu_9.jpg

徳川家康は隠居城である駿府城
ようやく戻った。

有名な鯛の天婦羅で食あたりを起こして
寝込んだ。という場面である。

実際には食あたりが死の原因ではなかったというが、
すでに自身の死が近づいていたことを悟ったという。
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二代将軍の秀忠駿府城に呼び、
最後の帝王学を伝授した。

家康が秀忠に「わしが死ねばどうなるか」という問いに
秀忠は、「天下は乱れます」と答えた。

・・・・「いいや乱れまい」と、家康は断定した。

    ざっと済みたり。・・・・




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普段なら、秀忠の答えに不服を表す家康であったが、
このときばかりは、微笑を与えたという。

まさに戦国きっての長寿をまっとうしようとする
男には、年少のころからの辛苦や様々な出来事が
走馬灯のごとく思い浮かんだのであろう。

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駿府城 ~華やかな城下~

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・・・・駿府では、美少年が多い。
    町を、華麗な小袖をきた美童があるいてゆく。
    理由がある。
    今川義元の好みであった。
    この京都文化の心酔者は、京都におけるあらゆる
    知的文化を駿府に導入することに熱中し、
    ついには京に淫するあまり、
    こういう嗜好までひき入れてしまった。・・・・


sunpu_6.jpg


この物語では「猿」と呼ばれていたころの豊臣秀吉の、
出世の糸口をつかむ前の時期の駿府周辺のことにについて
書かれている。

・・・・屋敷などはどことなく古雅で、
    とくに今川殿の居館にいたっては、
    (都の内裏もこうか)
    と想われるほどの雅致に富んでいる。・・・・


新史太閤記 (上巻) (新潮文庫) より抜粋

小京都と呼ばれていたころの駿河の国府の情景である。

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駿府城 ~穏やかなる国の乱~

sunpu_1.jpg

応仁の乱以後の戦国時代初期、
今川家が治める駿河の国の国府は
駿府と呼ばれていた。

駿河守護、今川義忠の死により、
穏やかな駿河に関東の上杉定正の魔の手が伸びる。
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今川の正嫡は氏親であるが、
幼主のため、駿府館を上杉定正の親類である
今川範満が守護然としている。

北条早雲は、亡き義忠への忠義を貫き、
嫡子氏親のために駿府館を奪い取る計画をした。

その気配を察し、駿府館防御体制をとった。

・・・・駿府館が、三ヶ所にあらたに櫓をあげる計画をし、
    諸方に普請の手伝いを命じたのである。
    「なぜ、いまさら櫓など」
    と、ひとびとは不審がった。
    駿府館はのちの世の城ほどではないが、
    その防禦の固さは東海一といわれて、
    いまさら堅固にすることはなかった。・・・・




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北条早雲の働きもあり、やがて今川範満は討たれ、
今川氏の正嫡である氏親が駿府に入った。

勲功第一の早雲が逆に駿府を簒奪することも可能だったろうが、
穏やかなこの駿河の国では気が引けたのかもしれない。
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熊本城 ~立ちはだかる壁~

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西郷隆盛率いる薩摩軍は、西南戦争で
加藤清正の築いた巨城、熊本城攻略に手を焼いていた。

まるで「加藤清正と戦っているようだ」と感じただろう。
それほどの堅城だったようだが、薩軍の攻めも拙かったようだ。

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・・・・「熊本の城は、この青竹(いらさぼう)一本で」
    土くれを打つようにしてたたき割る、
    というふうにしか攻城法を考えていなかった桐野は、
    陸軍少将でありながら、
    攻城は砲兵力による以外にないという初歩的な知識さえ
    もっていなかったことになる・・・・




戊辰戦争で砲兵の運用が最も巧みであった薩軍が、
なぜ、十年後の西南戦争でこのようことになったのか?
ということも書かれている。

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当時最強の軍隊も、過去の驕りでもあったのか、
この熊本攻城戦のつまづきで、運命が変わる。

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熊本城 ~櫓群が伝えたもの~

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加藤清正が精魂込めて造った熊本城に残る櫓群は、
当時でも目を見張るものがあったそうだ。
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現在でもその天守、櫓はひとつづつが時代を
物語っているように思える。

・・・・熊本城下のひとびとは、士農工商問わず、
    この城の天守閣のことを、
    「おてんし」
    とよんでいた。
    熊本城は全国の城のなかでもひどくめずらしいことに、
    天守閣が、三つ---御天守、小御天守、宇土櫓---
    あったことだった。
    城下のひとびとはそれぞれの天守閣を、
    「一のおてんし、二のおてんし、三のおてんし」
    というふうによんでいた。・・・・




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日暮れ時、まばらになった人影のなかで、
宇土櫓の雨戸が「パタン、パタン」と閉じらていく音が、
遥か昔のこの城での空間にたたずむような錯覚におちた。
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熊本城 ~時代を越えて~

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・・・清正は熊本城を築いた。
   当時の築城工学からみればこの城の防御力は
   最高のものであったらしく、
   とくに当時の用語で「はね出し」とよばれた
   石垣積みの工法では同時代のどの城も
   熊本城に及ばなかった。・・・・




加藤清正は多くの戦を経験した上で、
この熊本城築城に着工した。

もちろん朝鮮の役で、蔚山籠城の苦難をも、
この城造りに活かしたはずだ。

熊本城の威容や、随所に見られる構造上の工夫など、
様々な書籍によって想像をめぐらせることが出来る。
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しかし、関ヶ原の役後の徳川政権が確立しつつある時期に、
このような物々しい「いくさ城」を築城した清正の真の狙いは
何だったのか?

・・・・それほどに堅牢な要塞を清正に築かせたのは、
   豊臣政権の戦略的な必要からであった。

   中略

   ところがはるかに降って明治政府が、
   そのエネルギーをもろにかぶってしまった。
   明治十年の西郷の乱で、薩南一万数千の
   エネルギーが薩肥国境をこえて噴出し、
   熊本城にぶちあたり、この清正の城の攻防を
   めぐって明治政府の存亡が賭せられてしまったのである・・・・


<司馬遼太郎/ワイド版 街道をゆく〈3〉陸奥のみち、肥薩のみちほか>より抜粋

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およそ270年後の西南の役で、
清正の「芸術作品」が両軍の明暗を分けることになった。

清正は、ひょっとしたら数百年後に誰かが、
このように利用することも考えていたかも知れない。
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