
西郷隆盛率いる薩摩軍は、西南戦争で
加藤清正の築いた巨城、熊本城攻略に手を焼いていた。
まるで「加藤清正と戦っているようだ」と感じただろう。
それほどの堅城だったようだが、薩軍の攻めも拙かったようだ。
・・・・「熊本の城は、この青竹(いらさぼう)一本で」
土くれを打つようにしてたたき割る、
というふうにしか攻城法を考えていなかった桐野は、
陸軍少将でありながら、
攻城は砲兵力による以外にないという初歩的な知識さえ
もっていなかったことになる・・・・戊辰戦争で砲兵の運用が最も巧みであった薩軍が、
なぜ、十年後の西南戦争でこのようことになったのか?
ということも書かれている。

当時最強の軍隊も、過去の驕りでもあったのか、
この熊本攻城戦のつまづきで、運命が変わる。
加藤清正が精魂込めて造った
熊本城に残る櫓群は、
当時でも目を見張るものがあったそうだ。

現在でもその天守、櫓はひとつづつが時代を
物語っているように思える。
・・・・熊本城下のひとびとは、士農工商問わず、
この城の天守閣のことを、
「おてんし」
とよんでいた。
熊本城は全国の城のなかでもひどくめずらしいことに、
天守閣が、三つ−−−御天守、小御天守、宇土櫓−−−
あったことだった。
城下のひとびとはそれぞれの天守閣を、
「一のおてんし、二のおてんし、三のおてんし」
というふうによんでいた。・・・・
日暮れ時、まばらになった人影のなかで、
宇土櫓の雨戸が「パタン、パタン」と閉じらていく音が、
遥か昔のこの城での空間にたたずむような錯覚におちた。
・・・清正は熊本城を築いた。
当時の築城工学からみればこの城の防御力は
最高のものであったらしく、
とくに当時の用語で「はね出し」とよばれた
石垣積みの工法では同時代のどの城も
熊本城に及ばなかった。・・・・加藤清正は多くの戦を経験した上で、
この熊本城築城に着工した。
もちろん朝鮮の役で、蔚山籠城の苦難をも、
この城造りに活かしたはずだ。
熊本城の威容や、随所に見られる構造上の工夫など、
様々な書籍によって想像をめぐらせることが出来る。

しかし、関ヶ原の役後の徳川政権が確立しつつある時期に、
このような物々しい「いくさ城」を築城した清正の真の狙いは
何だったのか?
・・・・それほどに堅牢な要塞を清正に築かせたのは、
豊臣政権の戦略的な必要からであった。
中略
ところがはるかに降って明治政府が、
そのエネルギーをもろにかぶってしまった。
明治十年の西郷の乱で、薩南一万数千の
エネルギーが薩肥国境をこえて噴出し、
熊本城にぶちあたり、この清正の城の攻防を
めぐって明治政府の存亡が賭せられてしまったのである・・・・<司馬遼太郎/
ワイド版 街道をゆく〈3〉陸奥のみち、肥薩のみちほか
>より抜粋

およそ270年後の西南の役で、
清正の「芸術作品」が両軍の明暗を分けることになった。
清正は、ひょっとしたら数百年後に誰かが、
このように利用することも考えていたかも知れない。