大
毛利家120万石が
関ヶ原の敗戦で、
防長2カ国38万石に封じ込められた。

時の君主、
毛利輝元は「もう破産したい」というような
ことを漏らしたとか。
理由は、解雇されたにも関わらず、
「無禄でも構わないからそばに置いて下され」と言ってやまない
旧家来が多かったそうだ。

そんな混乱の中、始まった徳川政権。
毛利家としても幕府から無用な疑いを掛けられないよう
努力を強いられる。
萩に本城を移したのもそれと関係あるが、
実は風光明媚な
萩で、代々伝わる秘密儀式が行われたと言われている。
・・・・毎年元旦の夜明け前、家老が殿様に、
「倒幕の時期がせまりました。いかがいたしましょう」
というと、殿様が「まだ時期が早い」という
秘密儀式を徳川初期からしていたということですが、
どこまで本当かわかりません。・・・・・歴史と風土 (文春文庫)
/(
関ヶ原私観)の項より抜粋
臥薪嘗胆とは別な方法で、
関ヶ原敗戦の恨みを
忘れないように続けられたのであろう。
「萩にゃ行きたし 小倉も未練 ここが思案の下関」幕末の英雄、
高杉晋作が長州でのクーデター後、
次の戦略に悩んだ時期の唄である。

今の
萩は、古い武家屋敷や土塀などが残り、人気観光地であるが、
幕末には、砲火にさらされる危機があった。
決して幕府軍の脅威ではなく、
同じ長州人の
高杉晋作の戦略であった。
・・・軍艦がお城の海の近くまで押し入ってきて、
それがね、どろどろと一日じゅう、
大砲を撃ちやめないのです。
撃つたびに、萩の南の山や東の山にひびいて
わんわんこだまして。・・・・ 世に棲む日日 (4)
より抜粋
上の下りは、晋作の妻であるお雅が明治以降、
人に語った
萩のさわぎだそうである。
晋作としても、生まれ育った
萩を
戦火に包み込むまでは考えていなかったであろう。
ちなみに
世に棲む日日 (4)
には晋作の師匠である、
吉田松陰についても書かれていて、
萩の静寂さと、維新の原動力となった人々の葛藤を知ることができる。