黒田官兵衛についてもうひとつ。
播磨灘物語〈1〉 (講談社文庫)
には、
黒田家は近江黒田村の出だが、
後に備前福岡に移り住んだと書かれている。

そして、官兵衛の祖父重隆の時に
姫路に移り住み
家伝の目薬で一躍、身代を大きくした。
さらに、この元手で近在の人々に無担保、低金利で
貸し出した。当時としては破格のふるまいだった。
その代わり、この人々を一時家臣とした。
その数、200人であったそうだ。
この家臣団を息子の職隆(兵庫助・官兵衛の父)に預け
東播州の小寺氏の被官になった。
職隆は
姫路で狼藉する香山(かぐやま)衆を奇襲し。、
奪った所領は小寺氏に渡し、住民に対しては安堵させる処置をして、
姫路に黒田氏ありと知らしめた。
この下りなど、後の黒田如水の九州での決起は
お家芸だったのかと思わせる。
この手柄によって、当時空き城だった
姫路城を任された。

こういう経歴を読むと、黒田家の人々は
時代の先読みに長けていたことを再認識させられる。
そして官兵衛が織田信長、羽柴秀吉に賭けたことも
特殊な能力を授かっていたのかもしれない。
また、官兵衛がまだ二十歳前後で京にのぼった際に、
堺で司祭ビレラと知り合い、質問している場面が印象に残る。
(官兵衛はいくつも質問した。
ポルトガルから日本まで航海する日数、方向をどのように維持するのかということ。
・・・中略・・・
人間の生とは何かということ、
死が状態なのか生が状態なのかということ、
それら宇宙と地球の上でのすべてをつかさどっているのはただひとりの神である
ということなどを質問したり聴いたりした。) 播磨灘物語〈1〉 (講談社文庫)
より抜粋
小説風に表現すると、こうなるのであろうが、
後の
黒田官兵衛から想像すると、
このようなことを考えていてもおかしくはないだろう。
まさに大物だったのであろう。
姫路城が出てくる頃の歴史小説には、
もう一人忘れてはならない人物がいる。
いや、忘れるわけはなく、
別な意味でのスポットを当てなくてはいけない。
黒田官兵衛である。

あまりにも有名すぎて、いまさら
くどくどと紹介してもしょうがないので省略するが、
彼は歴史上のイベントで必ず名言を残した。
その名言が様々な人達によって色々と変化したであろう。
そんな中、自分が印象に残っているエピソードを
とりあえず一つ。
(残りはこの先、いつか触れることがあると思うので、小出しにする)
関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)
の最後の章が好きだ。
すでに
黒田如水として隠居していたはずが、
石田三成と徳川家康の争いのどさくさに紛れ、
九州を平らげ、関ヶ原の勝者との最終決戦を目論んでいた。
もろくも、野望は簡単に砕けたが、
そんなことをおくびにも出さず、京都で情報収集をしていた時に、
山名禅高が如水の元を訪ね忠告をする。
要するに如水が京都で謀反をたくらんでいると。
(この男こそ家康のまわしものである)とピンときた如水は
激怒したように装い、禅高に対し、もしそうなら自分は、
その機会があった時に乱を起こしていたと。
さらにその戦略まで語った。
「(平定した)九州の兵をひきいて山陽道をのぼる。
破竹のように攻めのぼる。先鋒は加藤清正である。
あの勇猛な清正がわしの軍配で働くならばむかうところ敵はない。
・・・中略・・・
播州はわが故郷であり、なじみの者が多い。
この播州に旗をたて、檄を天下にとばせば慕いあつまる者は十万をくだらぬであろう。
その兵をもって内府(家康)の軍と決戦すれば
天下の権はどちらに落ちたかわからない」 <
関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)
より抜粋>
しかし、それをやらなかった自分が今さら謀反を起こすと思うか?
と説明し、家康も安心した。
とにかく、
黒田如水の経歴と才能がなくては、
このような戦略は語れないであろうし、
「やろうと思えば出来たのに、やらなかったのだ」
とも言えないであろう。
姫路が生んだ英雄であることは間違いない。

雨の日の
姫路城は重厚な感じがする

歴代城主の瓦紋
織田信長の小説を読み、「
姫路城」とうい名が出てくると、
「あぁ、とうとう運命の時が近づいてきたか...」と思う。
秀吉の小説を読み、「
姫路城」という名が出てくると、
「あぁ、いよいよ運命の転換期がきた!」と思う。
いずれにしても、この先はじっくり、時間軸と
イベントの関係、地理的なイメージを正確に掴みつつ
緊張しながら、それぞれの小説を読み進めたいと思う場面だ。

現在の
姫路城の城郭はその当時、まだ面影が無かったが、
この地は二人の運命を大きく変えた場所と思える。
そんな心境で国宝
姫路城を訪れた。
その城郭や現存天守の見事さは、今回は触れないでおき、
信長から
秀吉への世代交代が起きた背景についてイメージしたい。
秀吉が
姫路城を拠点として、毛利氏の中国地方経略は開始してから
個性ある戦国武将達が次々と現れるのもこの時期の醍醐味。
そんな中、
秀吉軍団は毛利方の諸城を次々と鮮やかに落としていく。
すでに時代の中心は
秀吉になろうとしていたのか。
備中高松城攻めの最中に、いわゆる「明智光秀の謀反」により
信長は露と消えた。
<中国大返し
と秀吉がのちのちまで語り草にしたすさまじい強行軍が、
このときはじまった。
人間が間断なく泥濘をはね、風が天に鳴り、
ときにはげしく吹き巻いて軍旅にさからった。>新史太閤記 (下巻) (新潮文庫)
より抜粋
実際に私は大坂からJRで姫路へ向かったが、
これが以外と遠いのである。
備中高松から陣を払い、
姫路城で軍を整え、
京都の天王山で光秀を討つまでにおよそ7日間。
当時としては、奇跡としか言いようがなかったに違いない。
まさに運命の転機を捉え、運をたぐり寄せた
秀吉の魂を
この姫路で感じることが出来た。