松平容保は
孝明天皇の存在みが
心のよりどころであった。
京都では、日に日に幕府、開国派、
会津藩が追いつめられていく。
初めて御所を参内した容保は、
建物としては
会津若松城よりも
規模として劣る御所にも感激した。
これから帝に拝謁出来るのである。

御簾を隔てて拝謁した容保は
雷に打たれたように動けない。
まして顔面蒼白である。
そんな容保に帝は親近感をおぼえた。
ある日、帝が、
・・・・「わしに望みがある」
と廷臣に謀った。
「音に聞く会津藩の練兵をみたい」・・・・新装版 王城の護衛者 (講談社文庫)
/司馬遼太郎 より抜粋

天覧の馬揃えは、織田信長以来のことであった。
容保の采配によって自由自在に動く会津藩の練兵を見て、
帝は大満足であったという。
会津藩主
松平容保の生涯における渾身一滴の采配であったろう。

幕末の京都。
無政府状態の都に民衆の歓喜の声が沸き上がった。
会津藩が京都守護職として常駐するのである。
当時の幕閣から藩風、教育水準、兵の強さを頼みにされ、
この大任に抜擢された。

藩主は松平容保。
藩祖、保科正之がつくった家風は士風凛烈。
正に、将軍を守護するために武芸に励むというものであった。
しかし、京都守護職という名の非常警察の役目は、
長州、薩摩という役者を相手に険しい道となる。
文久二年、はるばる会津の鶴ヶ城を出発した藩士達は、
故郷に戻る日を夢見て王城の地を踏んだであろう。
かたや京の士民は、威風堂々と進んでくる会津藩の軍列を見物し、
その頼もしさに感激する。
・・・・「さすがは会津様や」
と、沿道の士民のあいだでどよめく声がおこった。
隊列はおよそ一里にわたっていた。
京都人は、三百年来、はじめて屈強の軍隊というものを
みたことになる。
なにぶん幕末以前は、幕法によって諸大名は
通過することさえ禁ぜられていた。
正式に藩主が兵をひきいてやってきたのは、
この日、会津藩が最初であった。・・・・新装版 王城の護衛者 (講談社文庫)
司馬遼太郎/ より抜粋

そして有名な唄が流行するのであるが、
時代の流れは期待だけでは変えることが出来なかった。
会津肥後さま、京都守護職つとめます
内裏繁昌で、公卿安堵
トコ世の中、ようがんしょ