
「軍師」という言葉を聞いて、
山本勘助と思い浮かぶ人は何人いるだろう。
昨今のドラマや小説で注目されたせいもあるが、
ある本では、軍師という役割りは、
山本勘助が最初である。としている。
参照
:軍師の時代―戦国乱世を演出した名将烈伝
/堀和久/日本文芸社
武田晴信と結びついたエピソードは様々である。
躑躅ヶ崎館で初めて対面した勘助の相貌を見ただけで、
その潜在能力に魅力を感じ、多大な知行を与えた。
甲斐を平定し、信州へと侵攻する晴信に
作戦、領民撫育など、勘助は影から進言し、活躍する。
そんな
山本勘助も、武田の居館である
躑躅ヶ崎館を見て考えた。
・・・・武田の居館を攻め落とすのは、
何でもないと思う。
山上からみると、まるで無防備である。
この無防備のままで、何事もなく
今日まで来られたというのは、
全く常に出でて闘って、
国内に敵を引き入れたことが
なかったからであろう。・・・・風林火山
/井上靖/新潮文庫 より抜粋

勘助は、主君晴信への感謝の気持ちと共に、
自分の役割をはっきりと掴んだのだろう。
武田信玄には変わった趣味があった。
いや、趣味と言うのは失礼であろう。
しかし、現代人から見ると非常に興味深い。
代表的なものは、居館、
躑躅ヶ崎館の「厠」だ。
・・・・看経の間の奥に、信玄専用の厠がある。
この便所は六坪であった。
畳敷きにして十二畳ものひろさをもつ便所に、
信玄は朝と夜の二回、かならずといって良いほど入る。
入って数時間は出てこない。
領国の政治から、戦陣の研究、他国への外交など、
いっさいの思案が便所の中でおこなわれる。・・・・真田太平記〈1〉天魔の夏 (新潮文庫)
/池波正太郎 より抜粋

善政を敷き、
甲斐の領民の信頼があったならばこそ、
当時最強と言われた軍団を維持できたであろう。

また、忍びの者を良く使った諜報活動により、
情報戦略にも優れていたと言われる。
忍者小説の多くは、
武田信玄を忍び使いの模範としている。
理由は、忍びの者へも同じ人間として尊重していたためである。

そんな忍びも、信玄の厠に待機していたと言う。
一心同体であったのだろう。

武田二十四将と聞いただけで胸が高鳴る。
戦国の英雄と言われた様々な武将でも、
武田信玄ほど家臣を信じ、適材適所に配置し、
縦横無尽に活躍させた大名も少ないだろう。
「人は城、人は石垣、人は堀...」
という言葉が武田信玄の家臣を信頼する
考えを映し出している。

躑躅ヶ崎館は、天守や櫓といったものがないが、
堂々と百名城に名を連ねる。
後世、映画やドラマでも、
武田家を象徴する館として、
様々なエピソードの舞台となった。
父信虎との確執や、家臣との戦評定、
出陣の際の「御旗」、「盾無」に
戦勝を誓うシーンなども
躑躅ヶ崎館だからこそ他の大名家とは
違った印象を受けるのだろう。
父信虎が築いた躑躅ヶ崎館も
父を追放した信玄によって
武田家の象徴と変貌していった。
・・・・・信虎は武田の陣を一望して、見事だと思った。
知らない間に、この謀略を用意した晴信も、
見事に武田の元首信虎を裏切った宿将たちの
一糸乱れぬ協力も見事だと思った。・・・・・武田信玄 風の巻 (文春文庫)
/新田次郎 より抜粋

実父を追放するという一歩間違えば、
謀反人とされる大博打も、
家臣団に信頼されていなければ成し得なかったことである。