もう一つの「大坂入城」続編。
土佐の英雄、
長曾我部元親が抵抗むなしく
天下を取った
秀吉に拝謁する場面。

元親が独力でほぼ四国全土を切り取る寸前に
織田信長のあとを継いだ
秀吉によって、
土佐一国に戻されてしまった。
大坂の城下に入ったのは、朝の九時すぎである。
沿道はびっしりと見物の群れが続いている。
(何と物見高い町よ)と、元親は迷惑するおもいだった。
− 南海道第一の弓取りであるそうな。
そういう好奇心が、町中の人気をよんでいた。
秀吉の四国征伐があまりにも華やかであったために
京大坂の者に、 長曾我部元親
という名を大きく知らしめた。
そのあたりの図子(路地)裏であそぶ子供さえ
長曽我部というこのめずらしい姓を知っており、
それが秀吉に次ぐ英雄であるかのように認識させていた。
− それが刀折れ矢尽き、憐れみをを乞うて大坂へのぼってくる。
ということが、城下の者にとっては自尊心をこころよく刺激した。
あれほど強かった元親でさえ秀吉卿にはかなわぬ。
大坂城に草履をぬいでのぼらねばならぬはめになったという。
その意味の人気であった。夏草の賦 [新装版] 下 (文春文庫)
より抜粋
地方の英雄は、とかく「蛮王」呼ばわりされ、
中央の英雄は、「正義の王」と偏見されることが多いようだ。
秀吉の偉いのは分かっている。
一方の蛮国の英雄の話を読みたい。
という方にはうってつけの本だと思う。
土佐の一郡から、権謀術数を使い、一領具足の制度を敷き、
精神力と胆力を絞り出すように、とうとう四国を制覇した元親。
しかし、中央の大きな流れには逆らえなかった。
せめてもの救いは、前述した下りの様子だったのだろうか?
いづれにしても
大坂城と
秀吉の威光は大坂町民の誇りだったに違いない。
当時の
大坂城は、太閤
秀吉の権力の象徴として、
また、
秀吉亡きあとの大坂再興の拠り所として
名だたる武将達を演出してきた。
そんな中、「大坂入城」のシーンで何度も読み返した
小説の下りを二つばかり紹介する。

一つ目は真田幸村の大坂入城シーン。
関ヶ原の役で西軍に与して敗軍となった真田昌幸、幸村父子。
紀州九度山に蟄居となり数年が経った。
徳川の世を盤石にしようと大坂方を挑発する家康。
ついに挑発に乗った形で大坂方が浪人を募集する。
父昌幸亡きあとの幸村は再び、当然のように大坂方へ参加する。
大坂冬の陣である。
真田と言えば父の昌幸が世間では有名である。
徳川軍を上田城で二度も破ったからだ。
実際に、大坂方は「真田殿入城!」と宣伝した結果、
家康さえ「それは父か子か!?」と聞き返したそうである。
父昌幸なら相当な苦戦を覚悟せねばならないと思ったのであろう。
しかし、子の幸村の名はまだ全国区ではなかったため、
彼の武略は未知数であるとされていた。
そんな幸村を大坂方は堂々と入城させるべく、
準備金を与え武威を整えさせた。
有名な「真田の赤備え」である。
実際の大坂入城のシーンは平服での入城らしかったが、
個人的には、「赤備えで粛然と入城した」ことにしている。
はるか後方に天守閣が見え、大手門から堂々と入城する
真田隊を城方が武者震いを抑えながら、頼もしげに見守っている。
幸村が通りすぎるまで勘兵衛は呼吸を忘れた。
やがて幸村が格子の左へ消えたとき、長い息をつき、
(父昌幸以上かもしれぬ)
となんとなく思った。(
城塞 (中巻)
/司馬遼太郎/新潮文庫より抜粋)

ヒデムラの百名城
「コンスタンチノープル以東における最大の要塞である。」
当時の宣教師に言わしめたアジア最大の要塞。関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)
より抜粋

そんな響きが、当時の
大坂城を象徴する
お気に入りの下りである。
全く想像できない...
今の大阪城からは。
それでもやっと念願の大阪城へ行ってきた。
百名城のひとつ。
この土地は、数々の歴史の舞台となった。
並みいる武将達の野望、栄光、悲哀、絶望...
大坂冬の陣・配置図を見ると、今の大阪が完全に
包囲されている。
「
真田丸はどこか...?」
と思い出したように探しても、電車で何駅か移動しないと
たどりつけない。
家康本陣は?
天守に打ち込んだ大筒の発射場所は?
まぁ、一度では網羅できないことは百も承知だったけど...
城攻めの天才、
秀吉が築いた古今無双の城塞。
この城を攻める野戦上手、攻城下手の家康。
その戦略は、やはり司馬遼太郎の「
城塞 (上巻)
」(新潮文庫)に
リアルに描かれている。
時代小説に出て来るエピソードでの
私の好きな名言、名句、シチュエーションを巡る
ご当地の城の旅を始めようと思う。
百名城 大阪