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ヒデムラ

妻が運営している「ご当地ですよ!」というサイトの中に、百名城のコメントを書いてくれと頼まれたことがきっかけで、ブログを始めました。
元々好きだった日本各地の城を実際に一つずつ訪ねる旅は、時間がかかることですが、思わぬ楽しみとなっています。

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川越城 ~原野の巨城~

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北条早雲がまだ伊豆一国の主であったころ、
関東の原野では、二つの関東管領を名乗る勢力が
しのぎを削っていた。

上州の山内上杉氏と武蔵の扇谷上杉である。

・・・・ 古来、都びとが作歌の上でおどろいてきたように、
     ここは一国おしなべて野であり、月が草から出る。
     早雲も感動をあらたにし、・・・・


箱根の坂〈下〉 (講談社文庫) /司馬遼太郎 より抜粋

と、言われる坂東の原野で、互いの勢力をぶつけるわけでもなく
謀略に謀略を重ねる抗争が続いていた。

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そんな関東原野に威勢を誇っていたのが、川越城であった。
関東ではぬきんでて大きな規模であった。

その川越城には扇谷上杉がこもっており、
北への領土拡張を狙っている。

そこへ、北条早雲が援軍として川越城へ入城した。
早雲は想った。この原野での戦術を身に付けねば...

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後の北条による関東制覇の偉業はこのときから
始まっていたのかもしれない。
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福岡城 ~去った武将の価値~

黒田長政の家臣、後藤又兵衛基次は、
朝鮮の役の際に名声を高めた。

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戦役から帰ってきた武士達は
口々に又兵衛の鬼神のような働きを
褒め称えた。

・・・・たいていの武士は、
    朝鮮における基次の装束まで憶えていた。
    銀の天衝を前立にした兜をかぶり、
    黒幌をかけた基次が敵陣へ突き入ると、
    まるで野分に吹き倒される草のように
    明軍はみだれたという・・・・・


言い触らし団右衛門 (中公文庫)司馬遼太郎/売ろう物語 より抜粋

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そんな筑前黒田五十二万石の福岡城下から
後藤又兵衛は去って行った。
主人の黒田長政との不和であった。

一万六千石の大身であった又兵衛を
隣国の細川忠興は二万石、
安芸の福島正則は三万石、
姫路の池田輝政は三万五千石で取り立てようと動いた。。
いづれも又兵衛は仕官を断った。

断るたびに男の価値が上がっていったという。

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そのうちに大坂-江戸が不和になり、
後藤又兵衛は豊臣方の武将として
大坂城へ入城、夏の陣で道明寺口で討ち死にした。

最後は徳川方から五十万石の価値がついたという。
男冥利につきるものである。

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熊本城 ~櫓群が伝えたもの~

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加藤清正が精魂込めて造った熊本城に残る櫓群は、
当時でも目を見張るものがあったそうだ。
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現在でもその天守、櫓はひとつづつが時代を
物語っているように思える。

・・・・熊本城下のひとびとは、士農工商問わず、
    この城の天守閣のことを、
    「おてんし」
    とよんでいた。
    熊本城は全国の城のなかでもひどくめずらしいことに、
    天守閣が、三つ---御天守、小御天守、宇土櫓---
    あったことだった。
    城下のひとびとはそれぞれの天守閣を、
    「一のおてんし、二のおてんし、三のおてんし」
    というふうによんでいた。・・・・




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日暮れ時、まばらになった人影のなかで、
宇土櫓の雨戸が「パタン、パタン」と閉じらていく音が、
遥か昔のこの城での空間にたたずむような錯覚におちた。
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熊本城 ~時代を越えて~

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・・・清正は熊本城を築いた。
   当時の築城工学からみればこの城の防御力は
   最高のものであったらしく、
   とくに当時の用語で「はね出し」とよばれた
   石垣積みの工法では同時代のどの城も
   熊本城に及ばなかった。・・・・




加藤清正は多くの戦を経験した上で、
この熊本城築城に着工した。

もちろん朝鮮の役で、蔚山籠城の苦難をも、
この城造りに活かしたはずだ。

熊本城の威容や、随所に見られる構造上の工夫など、
様々な書籍によって想像をめぐらせることが出来る。
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しかし、関ヶ原の役後の徳川政権が確立しつつある時期に、
このような物々しい「いくさ城」を築城した清正の真の狙いは
何だったのか?

・・・・それほどに堅牢な要塞を清正に築かせたのは、
   豊臣政権の戦略的な必要からであった。

   中略

   ところがはるかに降って明治政府が、
   そのエネルギーをもろにかぶってしまった。
   明治十年の西郷の乱で、薩南一万数千の
   エネルギーが薩肥国境をこえて噴出し、
   熊本城にぶちあたり、この清正の城の攻防を
   めぐって明治政府の存亡が賭せられてしまったのである・・・・


<司馬遼太郎/ワイド版 街道をゆく〈3〉陸奥のみち、肥薩のみちほか>より抜粋

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およそ270年後の西南の役で、
清正の「芸術作品」が両軍の明暗を分けることになった。

清正は、ひょっとしたら数百年後に誰かが、
このように利用することも考えていたかも知れない。
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小田原城 ~走り続けた跡に~

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北条早雲八十一歳。
彼が走り続けた跡に残ったものは何か。
小田原城を得た後はひたすら領国経営に努めた。

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・・・たとえば、晩年、馬泥棒を警吏がつかまえた。
   法を確立するために、早雲一代においては
   そういう者までかれ自身が裁いた。
   馬泥棒はみずからの非をみとめたが、しかし、
   「わしが盗んだるはたかが馬じゃ。
   国をお盗み遊ばした方があれにおわす」
   と、早雲を指さしたとき、かれはあかるく笑い、
   いかにもそうだ、といってその盗人を
   放してやったという。・・・・


箱根の坂〈下〉 (講談社文庫)より抜粋

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戦国時代に幕を切って落とした張本人は、
その生涯を終えるとき、何を想っていたのであろう。

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